スペイン語との出会い

1975年父の仕事はなぜかオイルショックの影響で儲かってしまった種類のものだったらしいのです。

英語で歌ったり演劇をしたりするLabo Partyというところで楽しく裏方や背景画を書いたり影絵を動かしたりしていたところ、夏休みにアメリカでホームステイやキャンプに参加を募っていました。

経済観念が全くない(今だにない)私は1ドル240円の時代に日本円で総額30万円を超えるこの企画に勝手に申し込んでしまいました。

もちろん中学生の申し込みだけで通るわけもなく、保護者に確認があったわけです。当然クーリングオフを母が申し立て、それでお終いになるはずだっったのですが、少し(もしかしたら大分)懐が暖かかったらしい父が何故か私の味方をしてくれました。

断固反対だった母を説得した父の一言は、

「おい、確か村長もまだ外国へ行ったことないはずだぞ。」

村の流行は自分がリードしていると自認(誤解)していた母はあっさりこの言葉に引っかかり、目出度く

「お父さん、アメリカ、行かせましょう!」

となりました。

かくして、村から初の海外渡航者となった娘は、こうしてノマド人生へと乗り出したのでした。

こんな村に生まれ育ったので、行き先の希望は大都会ロサンゼルス、なのに、何故か割り振られた行き先はユタ州のど真ん中、ブリガム市となりました。

質素な生活を営むモルモン教徒のホームステイ先のテレビは、村の我が家でさえカラーテレビがあった時代に、何とまだ白黒でした。テレビで見ていたアメリカとは違う、逆カルチャーショック!!

私のホストファミリーは同じ州へ一緒に着いた他の日本人から羨ましがられた、美男美女が揃った一家でした。子供は一歳年上の男の子と一歳年下の女の子で二人とも本当に仲良くしてくれて、楽しい楽しい四週間でした。

英語は何故か初日から全く困らず、一歳年上のハンサムな男の子がやっていたスペイン語の宿題にちょっかいを出していました。私が興味を持ったのでAからZまでスペイン語での発音を教えてくれたのですが、それは綺麗な鼻筋に鳶色の知的な瞳のお兄さんだったので、スペイン語=お兄さん=好きと刷り込まれました。

思えばこれが人生でスペイン語に触れた最初の瞬間だったのです。この先私に降りかかるスペインの呪いなど、この時は知る由もありませんでした。

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